「国際人になるには、まず日本人であることであることが必要」と言う主張は、イタクラッている英語のところで縷々述べた。ここでは、日本語を少し考えてみたい。
例えば、「技術文書を分かりやすく書くにはどうすればよいか」と言うことを、今まで学校で習ったことがない。作文を習っても、文学の一環としてならったので、理科や数学の一環としてならったことはない。
したがって、この章で言うことは、自己流です。変なことも言うかも知れませんが、批判を仰いで良くして行きたいと思っています。
まず、「キーボード考」からはじめます。
<目次>
[Ⅰ] キーボード考
1. なぜ、キーボードには、「スペースキー」が真ん中で長いのだろうか。 (20040111)
2. 「だ」は、「た」に「゛」だろうか (20040111)
3.原稿用紙とレター用紙 (20040201)
[Ⅱ] イタクラッている日本語の文章
4.イタクラッている文章の書き方(私の文章修正メモから) (20040306)
[Ⅰ] キーボード考
1. なぜ、キーボードには、「スペースキー」が真ん中で長いのだろうか。 (20040111)
ちょっと英文を引用します。去年来たクリスマスカード(メール)から引用します。
「I hope that during 2004 we will be able to meet once again in Tokyo or in the USA.」
この文章は、スペースを含めて全部で82文字あります。そのなかに、18個の「スペース」があります。つまり、22%が「スペース」です。
次に日本語の例として、表題を引用してみます。
「なぜ、キーボードには、「スペースキー」が真ん中にあって長いのだろうか。」
この文章は、32文字を使っています。そのなかに、「スペース」は無い、0個です。日本語の文章では、段落落としのとき位でしか「スペース」を使いません。
英文では、最も使用頻度が高いのが「スペース」です。日本語では、最も使わないのが「スペース」です。
日本語を打つにも関わらず、最も使わない「スペース」がキーボードの一番打ちやすい位置にあります。おかしいですよね。
キーボードはアルファベット国民の発明ですから、当然一番打ちやすいところにスペースキーかあるはずです。しかし、日本語のキーボードであれば、スペースを隅っこに追いやってかまわないはずです。
このように、アルファベットのキーボードは、日本語入力に最適ではないと言うことが出来ます。
ところが、親指シフトキーボードでは、下の図の様にスペースキーが伸び縮みします。英語を打つ時は図の上のようにすべてがスペースになります。日本語を打つ時には、図の下のように3つに分割されます。この様に、スペースキーが伸び縮みすることで2つの言葉の入力を容易にしています。私の場合、日本語も英語も打ちますが、どちらも違和感なく快適に使うことができます。
空白 |
||
親指左 |
親指右 |
空白 |
親指シフトが如何に日本語打鍵に向いているか、シミュレーションを見てみましょう。
2. 「だ」は、「た」に「゛」だろうか (20040111)
小学校の時、「だ」と書くには、「た」に「゛」を書くと「だ」になると教わりました。ところが、考えるときは「た」に「゛」とは考えていません。あくまで、「だ」は「だ」と考えています。書く時は、「た」に「゛」ですが、頭の中は「だ」と考えています。原稿用紙の枡目を埋めるのは、一文字です。頭に浮かんだ一音が一つのキーに対応していると考えが中断されにくい。
JISキーボードでかな入力すると、「だ」を「た」と「゛」に分けて打ちます。「だ」と「た」は別物なのに「た」を意識しなければならない。これは思考を妨げます。
ローマ字変換だと素直です。「TA」と「DA」は、明らかに別物と認識されます。ただ、2つ打たないと「た」も「だ」もでてきません。
親指シフトでも同様に、「た」と「だ」は、別物と認識されます。しかも、一度のキータッチで入力できる魔法のキーボードです。親指で「親指右」キーと「た」を、親指と他の指で同時に打つと「だ」が出てきます。要するに、考えながら打てるキーボードです。
英語だと、子音同志の結合があって、音か独立していません。例えば、「think」の「th」は、子音が2つくっついています。日本語だとあり得ません。「あいうえお」の「た行」と「は行」がくっつくことになってしまいます。
多分、英語では、音を文字の流れで表しているのに対し、日本語では、文字自体で音を表現しているからなのではないでしょうか。ちなみに「htink」と順を間違えると、見た時に猛烈な違和感があります。日本語だと、「なちみに」となり、そう違和感はありません。ボウッとしていると「ちなみに」と読んでしまいそうです。
この様に日本語でものを考えるときに使う入力装置としては、一音が一打で入力できることが望ましいのではないかと考えています。これが、親指シフトキーボードで実現されています。
親指シフトキーボードの利用者が、親指シフトを普及させる会を作っています。そこの協賛者には、作家や書くことが職業の人が多くいます。
親指シフトを普及させる会のホームページなどの親指シフト関連情報は、ここにあります。
3.原稿用紙とレター用紙 (20040201)
日本語のフォントでアルファベットをプリントするとぎこちなくなります。日本語は、枡目に入って一定の大きさで読みやすくなりますが、アルファベットの文字を等間隔で打つときれいに見えないのです。「書式」「フォント」を開いて、アルファベットのフォントを「日本語とおなじ」でなく「Century」あたりにしてください。「G」と「I」は、両方半角ですが幅がちがいます。アルファベットは可変ピッチで打たないときれいになりません。半角でGとIとFを打ってみます。ほぼおなじ長さにはいる文字数がちがいます。
GGGGG・・・・G 5文字
IIIIIIIII・・・・I 9文字
FFFFFF・・・・F 6文字
では、おなじアルファベットを全角で書いてみます。全角だと、日本語表示になり、「G」「I」はおなじ幅になります。
GGGGG・・・G 5文字
IIIII・・・I 5文字
日本語には原稿用紙がありますが、英語圏では原稿用紙に相当する枡目のついた紙はありません。日本語では、罫線があるだけのノートもあるので、どちらでもよい便利な文字だと言うことができます。また、枡目に文字を書けると言うことは、書いた位置が変わらないと言うことです。アルファベットでは、次に書く位置は、いま書いた文字によって変わってしまいます。
原稿用紙では、文字の大きさが一定なので、どこに書いても途中に文字を追加しても位置は変わりません。したがって、日本語ワープロ、例えばOASYSは、矢印キーを使っても、スペースキーとCRを使っても、紙の(画面の)どこにでもいけます。ところが、英文ワープロ、例えばWORDでは、CRとスペースキーでしか先にすすめません。前に文字が詰まっていない(この場合「スペース」が詰まっています)と、そこに文字が書けないようになっています。
矢印でどこにでもいけない理由は、もう一つあると思います。英文タイプライターは、機械式のときから、CRとスペースでした。メカで紙を送るから、自由自在にどこにでも飛んで行くことはできない。一方、日本語タイプライターは、特に個人向けは、はじめからコンピュータ制御だったのでどうにでもできた。こういう理由もあると思います。
いずれにしろ、後からできたよい機能を殺して古い機能を我慢して使っていると言うことになります。
私にとっては、このCRとスペースキーを使うのが思考を妨げます。気がついたことを適当に離して書いておいて、本文を書いていくと適当な距離をおいてメモが動いてくれます。この適当に離す時に、スペースとCRキーを使うと思考が中断されてしまうのです。
4.イタクラッている文章の書き方(私の文章修正メモから)
今回から何回か、2003年12月に出版した「プロジェクトの解明」を書いていた時に、著者各位の文章を修正したメモを挙げます。自分では大した文章は書けないのですが、他人の書いた文章は気になって仕方がない。多分、そういう年齢になってしまったのであろうと、悔しい気分もあります。しかし、分かりやすい文章を書くことは、普段私たちが認識している以上に重要なことなのではないだろうかと考えるようになりました。
分からない文章などいくら書いても、ゴミにすぎません。読む人が分かって初めて意味があります。普段、私たちは、システム化の目的だとか、仕様書、議事録、・・・、たくさんの文章を作り出しています。文章を作ることは、記録すると同時に伝えることに意味があります。
一方、学校ではある文章を読んで「どういう意味か解釈しろ」とか「どこそこの『これ』は何のことか説明しろ」という類の教育を受けました。しかし、「どう直せば、分かりやすくなるか」という教育は受けたことがありません。なんだか、変じゃないですか。
本多勝一著「日本語の作文技術」(朝日文庫)に、シャルル・バイイ氏が述べたとして次の引用が載っています。「フランス語は、日本語に比べて論理的だ」という日本人学者の主張に反論して、「フランス語の明晰性は、この言語の構造がずば抜けて明晰であるというより、むしろフランス人が、彼らの国語を用いる時に明晰な表現に深く意を用いるという事情に由来する」と言っている。
私は、残念なことに、この言葉に新鮮さを感じてしまう。「言葉ってそういうものなのだ」と。また、「こんなことさえ考えたこともなかった」という新鮮さです。上に挙げた本は、分かりやすい文章を書く法則を導き出しています。一読を勧めます。
法則まで高めたものは、掲記本に譲り、私は、「イタクラッている分かりやすい日本語」(本当かどうか怪しいところもあります)の書き方を書くことにします。もちろん、板倉の好みが入った「イタクラッている日本語の書き方」ですから、取捨選択して使って下さい。
なお、例題は、著者各位の元の文章から無断で引用しました。
(1) できる限り「行う」を使わない。他の言い回しを考えること。どうにもならない時は、使っても良い。(20040306)
なんでも、「行う」人が多いですよ。身の回りにある少しかしこまった文章を読んでみて下さい。例えば、仕様書、など、プロが書いたのではないかしこまった文章を読むと「行う」だらけです。紙に書くときも、かしこまらず、普段着で書きましょう。
(例)
無事納品を行った → 無事納品した
右の方が素直でしょう?
効果発揮に不可欠な部分の開発を行っていた。 → 効果がある部分に絞って開発していた。
「行って」を使う為に、他の部分まで「コチンコチン」になってしまった感じです。
方の力を抜きましょう。
(2) 文体は、基本的には、「である」、「だ」体で書く。しかし、「ですます」が混じっても、勢いがあればかまわない。文章は、統一性よりいきおいだ。(20040306)
たいていの文章の本には、「ですます体」なら「ですます体」で統一しろということが書いてある。本当にそうでしょうか。「統一していること」を気にして読む人がいるとすれは、統一という教条主義にさいなまれているとしか思えません。
基本的には、文章にリズムがあれば、統一されていようが/なかろうが関係ないと考えています。しかし、書いているときに休むとリズムは崩れてしまう。書く方は時間が掛かり、読む方は短い時間で読めます。また、時間を掛けて書いたり、何回かに分けて書くと、文章のリズムが狂ってしまいます。
したがって、一気に書いた文章は、一般的に勢いがあります。しかし、勢いだけがあって、後で読むと、説明が足りないところや、論理が飛躍しているところなど、いろいろな不満なところを見つかってしまいます。
これを直すと、リズムはぶつぶつになってしまいます。つまり、勢いのある文章を書くには、一気に書くことですが、それだけでは分かりやすい文章はかけません。この結果、リズムが消えてしまう。リズムの面からは、つまらない文章になってしまうということではないかと思っています。
しかし、仕事で作る文章では、リズムよりも分かりやすさの方が重要です。表題で「統一性を第一に考えるな」と言ったのは、勢いがあって、さらに、分かりやすければその方が良いからです。また、文体で分かり安さは、ほとんど変わらないと考えるからです。
リズムの方はあきらめて、分かりやすくするために、私は次のようにしています。
書き上げて、3~4日おいて読み直すことを何回か繰り返します。60点くらいとれたと思ったら、1~2ヶ月放っておきます。何を書いたかほとんど忘れてからおもむろに読み直して、論理が飛んでいるところや、構造がおかしいところを直します。多分、リズムは失ってしまっていますが、その方が大事なので、そうしています。このとき、文体の統一にはあまり気を使いません。
このホームページでは、ここまで、実行していません。本を書くときや、動詞もすいこうが必要な文章を書くときは、このようにしています。
(3)「・・あり、・・」や「・・し、・・」は、「・・なので、・・」など、原因/結果、並列/直列、従属/独立など論理関係が明らかになる接続詞を使う。
文と文、あるいは、節と節は、論理的な関係でつながっていなければならないと思っている。もちろん、小説や詩は、行間に意味を沢山もたせることで味わいがでるのであろう。 俳句は、17音のなかに大きな情景を埋め込んでいる。
私は、小説や詩は書けないので、論文や仕様書など論理の世界での分かりやすい文章の書き方を探している。 今回は、「・・あり、・・」を例にとって、「プロジェクトの解明」で直した点を書くことにする。
次の文を考えてみよう。
(1)「彼は数学の才能があり、社交性をどこかに置き忘れてしまったようだ」
(2)「彼は数学の才能があるが、社交性をどこかに置き忘れてしまったようだ」
(3)「彼は数学の才能があ(りすぎ)るので、社交性をどこかに置き忘れてしまったようだ」
(2)の文の「あり、」の前後は独立している。したがって、「あり、」の前後の文は、並列である。
(3)の文では、「あり、」の前の文の結果が、「あり、」の後ろの文で述べられている。
(1) の文では、どちらか分からない。読み手に任されている。
論文や仕様書では、読者の解釈が入りにくい文の方が、正確に意味が伝わるはずだと言う仮説に反対する人は伊那だろうと思う。
脱線するが、この文をもう少し抽象度の高い言葉を使ってみよう。
「彼は利口であり、馬鹿でもある」
これは、普通の文だが、(1)よりも、もっと解釈が読み手に任されている。使われている言葉の抽象度が高すぎるからだ。意味の伝わりにくい言葉は避けた方がよい。今は、その様な言葉のリストをもっていない。
同様に、「分からない」という言葉ほど分からない言葉ない。ある人が「分からない」といったとき様々な解釈ができる。「部分が分からなくても」、「全部分からなくても」、「分かっているが自分はちがう意見をもっていても」、「分からない」という言葉を発する場合が多い。 文章のリズムをくずさないで、 かつ、しつこくない説明的な文章が書ければ、理想的な書き手に成れるのだが、・・・。(ここは、読者の解釈におまかせします)
では、「プロジェクトの解明」の本を書いている時に直した例を示そう。
(例)
事務処理システムと言う対象物があり、その機能をコンピュータで代替するわけであるから、基本は機能の置き換えが目的になる。
↓
事務処理システムと言う対象物があるので、その機能をコンピュータで代替するわけであるから、基本は機能の置き換えが目的になる。
↓
まだおかしい
↓
事務処理システムと言う対象物の持つ機能をコンピュータが代替することが目的である。
この例は、「あり」の問題ではなかったようだ。
原因/結果、並列/直列、従属/独立に関しては、弊著「知のモデリング」を参照下さい。
(4)「~より」~からの意味の「より」は、なるべく使わない。
「~より」は、意味の種類が多い言葉だ。前置詞で言えば、From、by、with、比較級、using、などが「よリ」で表せる。例えば、こうだ。
(1) From 「その件は4月10日より始まった」
(2) By 「その会は彼により取り仕切られた」
(3) 比較級「彼女はよりきれいになった」
(4) using 「その理論は、ピタゴラスの定理により証明された」
これらを書き換えてみよう。
(1) From 「その件は4月10日から始まった」
(2) By 「その会は彼によって取り仕切られた」
(3) 比較級「彼女はもっときれいになった」
(4) using 「その理論はピタゴラスの定理を使って証明された」
下の方が、はっきりした感じがするでしょう。私はできるだけ、「より」を使わないようにしている。
この件は、弊著「知のモデリング」日科技連出版にも書いたので、興味がある方は読んでいただきたい。
(5)かかりは、かかりの構造にあわせて書いて下さい。(20040411)
これは、本多勝一著「日本語の作文技術」朝日文庫 に載っている例文から引用します。歌曲「美しき水車小屋の娘」の意味は、次のどれでしょうかと言う話が載っています。
(1) 「美しき水車小屋の美しき娘」
こうすると、美しきが「水車小屋」と「娘」の両方にかかる。
(2) 「水車小屋の美しき娘」
こうすると、美しきは娘にだけかかる。
(3) 「(美しき水車小屋)の娘」
美しきが水車小屋にだけかかる様にしたいのですが、上手くできない。「美しき水車小屋、の娘」じゃおかしいし、「美しき水車小屋の、娘」でもおかしい。「美しい水車小屋の醜い娘」とすればはっきりする。説明的に、「美しいのは水車小屋だよ」と付け加えれば、はっきりする。短くは表現できないのかな?
(4) 「美しき(水車小屋の娘)」
美しきが「水車小屋の娘」にかかる様に表現したいのですが、上手くできない。「美しき、水車小屋の娘」で良いかな~なんて考えてしまう。
この例の様に「かかりの構造にあわせて書け」と言うべきだったが、「プロジェクトとの解明」の著者各位には「できるだけかかる先に近づけて書いて下さい」と書いてしまった。本来、「上のようなかかりの構造に合わせて書け」と言うべきでした。
「プロジェクトの解明」を書き終わってから、「日本語の作文技術」を読んだので、「プロジェクトの解明」の読者各位、および、著者各位には、分かりにくいまま出してしまったかもしれません。陳謝!
いずれにしても、ここまで考えないとはっきりした日本語の文章が書けないとすると、色々問題がありそうだ。英語だとどうなるのだろうか。そのうちに考えてみることにします。
いずれにしろ、「日本語の作文技術」の一読をすすめます。
(6)文章は短く (NEW 20040429)
「文章は短い」は、夏目漱石以来常識だと思っています。常識にも関わらず、長々とした文を書いてしまうことがある。書くことは特別だと構えてしまい、結果として長くなるのではなかろうか。自然体で書きたい。
夏目漱石の著書「我が輩は猫である」の冒頭は、次の通り。
「我が輩は猫である。名前はまだない。なんでも、薄暗いところでニャーニャー泣いていたことを覚えている。」
短いですね。
文が短いと分かりやすいことを、大抵の人は知っている。しかし、紙とかワープロの前に座って「サー書くぞ!」などと気合をいれると、これを忘れてしまう。いつのまにか長い分かりにくい文章を書いてしまう。
(例:修正前)
「しかし、立ち上げ時の接続方法が(コネクションの確立、ネゴシエーション手順)が不明確であったので、この仕様について書いたものの提供を要求したところ、両終端のプログラムを開発する前に作成され正式承認された、通信接続・切断インターフェース仕様書を受け取った。」
↓
(例:修正後)
「しかし、システム立ち上げ時のコネクションの確立方法やネゴシエーション手順(接続方法)が不明確であった。これらの仕様を明確にするよう発注者に要求した結果、通信の接続/切断インターフェースの仕様書を受け取ることが出来た。この仕様書は、両終端のプログラムを開発する前に作成され正式承認されていた。」
では、上の文例の統計値を見てみよう。一文の長さの目安は、45文字だそうだ。
なお、この統計には、OASYS2002のツールを利用した。
上の例の修正前の文の長さ 126文字(一文しかないので、絶対値である)
同様に、修正後の文の長さ 48文字(平均値)
「プロジェクトの解明」の第三章 35文字(平均値)
「プロジェクトの解明」の第三章を例としてあげた理由は、この章は、全て私が書いたからだ。目安よりも10文字短い。
方の力抜いて、「短く書くこと」を気にしながら書こう。
(7)「必要である」で終わらないこと。 (NEW 20040530)
文章が「必要である」で終わってしまうと、読者は、はぐらかされた気持ちになる。「だからどうしろって言っているのだ???」と思ってしまう。
本来は、「必要である」の次に、「だから、・・・する」など、次に、事例や対策が書かれるべきだし、あるいは、具体的記述が前にあるべきである。
どうしても、最後に「・・・が必要である」で終わらざるを得ない時は、仕方がないので、語尾を変えてください。
例えば、次の例をみてみよう。
(例)
(原文)
残バグ数管理、仕上がり具合の探針評価、などの手法も有効に活用する必要がある。
↓
(語尾を変えると)
残バグ数管理、仕上がり具合の探針評価、などの手法も有効に活用してほしい。
↓
(中身を書くと)
マクロなバグ予測 ちするには、残バグ数管理が有効である。・・・・(どう使えるか)・・・。また、個別の品質状況をつかむには、探針評価をすべきである。マクロな品質状況をつかんだだけでは手が打てない。
語尾が違うだけでも印象が違うので、最悪ここまでのカイゼンをしてください。できれば、中身を書いてほしい。
<未完の目次>
4. 親指シフトと英文入力
5. キータッチの数
6 英文を書く時と日本文を書く時
7. コンピュータは、思考の道具か。
8. 年寄りにも憶えられるか。
9. 3段シフトの意味
10. 日本人の特性、日本で発明されたものはたいしたことはないと思う傾向がある